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『空と海のあわいに』第5話の(2) - GQ JAPAN

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鎌倉駅の改札を出ると空気がひんやりと澄み切っていて、季節はもう冬なのだと大輔は気がついた。肌寒かったけれど、なんとなく気分がいい。妥協してサラリーマンに戻るという選択をしなかったし、短い間ではあるけれど今日から海の近くでの生活が始まるし、ちゃんと新しい季節に気がついたし。そういうことをひっくるめて、久しぶりに心が躍った。

別荘には夕方までにつけばいいので、鎌倉駅辺りをぶらぶらした。西口の前は小さなロータリーで、その周辺には銀行があって、クリーニング屋があって、本屋があって、スーパーマーケットがあって、蕎麦屋にパン屋、ラーメン屋にコーヒーショップがあった。観光客らしきグループもいるけれど、ここにはしっかりと生活の匂いが染み込んでいる。

史郎さんに招かれた有楽町のテクストューラの系列店を見てみようかと思ったが、駅から近くはなさそうであきらめた。

あちこち歩き回ってから、駅前の喫茶店に入った。煉瓦造りの外観、看板には「SINCE 1967」の文字。今時めずらしく、それぞれのテーブルに銀色の灰皿が置いてある。入ってすぐのL字型のテーブルには、スポーツ新聞を読みながら煙草をふかしている中年の男がいて、その向かいの席に案内された。

まじまじと煙草の煙を見たのはいつ以来だろうか。歪んだ白い輪っかがいくつも空中を彷徨っている。頼りなくて、ひょうひょうとしていて、こんなふうに生きていけたらいいだろうなあ、と大輔は思った。

カウンターの奥には規則正しくコーヒーのサイフォンが並び、店内にはコーヒーの香りが満ちていた。チェックのシャツを着た女性の店員がトーストを載せた皿を煙草の男へと運んでいった。それを見て、思い出したように空腹を感じた。食べ物のメニューには、トーストが何種類かの他、ハンバーグステーキやハヤシライス、カレーライスなどがあった。

スパゲッティとコーヒーのセットを選んだ。メニューにはただ「スパゲッティ」とだけ書いてあり、どんなものなのかわからなかったが、半ば占いのような気持ちでわからないまま注文してみた。ペペロンチーノのようなものだろうか。

数分後に目の前に置かれたのはほとんど具材の入っていない赤いスパゲッティだった。ナポリタンによく似ているけれど、ナポリタンではない。ケチャップの味がしてでも、ピーマンも玉ねぎもソーセージも入っていない。麺にはところどころ焦げ目がついている。なつかしさとおどろきが同じくらいあった。

食べ終わるタイミングで、コーヒーがきた。出過ぎたものも足りないものもない一杯だった。

別荘に着いたのは、午後四時頃。確かに別荘はところどころ壊れていて、前に来た時には気がつかなかった綻びがいくつかあった。一樹によれば、あれから清掃が一度入っただけで、人の出入りはないのだという。室内は少しカビ臭かった。あらゆる戸を開けると、建物が呼吸をし始めた気がした。

コートを着たまま居間から海を見渡すと、潮風の香りに包まれた。夏の記憶がよみがえってくる。汗ばむ肌、蝉の声、突き刺さるような陽光。この家に来たのは二度目なのに、なつかしいという感情が湧いた。

夕方、東京の部屋から出しておいた宅急便が届いた。パジャマや作業着のスウェット、文庫本数冊、ukaのメンズ・シャンプー、HOKA ONE ONEのスニーカー。どこかに出かける予定があるわけではないけれど、ポロ ラルフ ローレンのパンツとkolorのニットは持ってきた。置いてある酒は好きに飲んでいいとのことなので、セラーからカーブドッチのペティアン・デラウェア 2018を選んで、栓を開けた。

一人で、新しい生活に乾杯する。暗くなった海に向けて、グラスを差し出した。

そこにいるはずだった礼美がいないマンションの部屋と違って、最初から誰もいない一軒家には欠けているものはない。家族も、職も、そろそろ金もなくなりつつある自分を誇らしく思った。

翌日、一樹から新品の段ボールが束で届いた。改装する居間の荷物を詰めるためだ。軽く考えていたのだけれど、これが意外と心を使う作業だった。

ラックには大量のレコード、本に写真集、 DVDがあり、ガラスケースにはグラスや器があり、棚には銀器やらオブジェやらがいくつか残されている。

会ったことのない男の、過去を整理している気分だった。

「Reman in Light/Talking Heads」「UNDER COVER/ROLLING STONES」「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars/David Bowie」「Rapture/Anita Baker」「長いお別れ/レイモンド・チャンドラー」「冷血/カポーティ」「ちょっとピンぼけ・ロバート・キャパ」「コカイン・ナイト/J.Gバラード」「アメリカの神々/アニー・リーボビッツ」「アニー・ホール」「ブエノスアイレス」「バクダッド・カフェ」「グラン・ブルー」「母なる大地」などなど。

ローリング・ストーンズの名前は知っていたけれど、曲は知らない。今まで写真集というものはグラビアアイドルのものしか手に取ったことはなかった。ウォン・カーウァイという名前は、紬さんが話していたのを覚えていた。

事務的に段ボールに収めていくつもりだったが、しょっちゅう引っかかってはタイトルをスマホでググったり、パラパラとめくってみたりで、作業はなかなか進まなかった。あっという間に一日が終わったが、居間はまだ半分も片付いていなかった。

つづく

PROFILE

甘糟りり子

神奈川県生まれ。作家。大学卒業後、アパレルメーカー勤務を経て執筆活動を開始。小説のほか、ファッション、映画などのエッセイを綴る。著書は『産まなくても、産めなくても』(講談社文庫)『鎌倉の家』(河出書房新社)など。

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January 10, 2020 at 07:30PM
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