なんだ、これ。
今まで飲んだ中で一番おいしい水割りだった。というより、大輔にとってウイスキーの水割りは味わうものではなく、酔うための道具でしかなかった。おいしくてなくても、目の前にある現実を強引に曖昧にしてくれればいいのだ。それなのに、今手にしているグラスの中のウイスキーと水を混ぜ合わせただけのものは、何やらまろやかでしなやかでさわやかである。余韻がいつまでも舌に残った。
「70年代のジョニ黒です」
コットンでできた白いジャケットを着たバーテンダーがいう。
「めちゃくちゃうまいですね」
一樹がいった。一樹も水割りを飲んでいるが、大輔のものとは銘柄も違うらしい。
「そちらは、デュワーズのネ プラス ウルトラ12年。70年代に流通したボトルです」
ところどころステンドグラスが施された窓からは、夕陽が川と海と江ノ島を赤く染めているのが見える。夕方と夜の間にもう一つ時間帯があることを、大輔は無職になって知った。
カウンターには男と女がいて、二人とも葉巻を燻らせている。年齢不詳の女の左手首にはボーイズサイズのパテック フィリップ、カラトラバ。二人ともあまり話さない。
一樹はグラスを手にしたまま、こちらに向き直った。
「それがさあ、困ったことになっちゃった」
「どしたの?」
「居間に使う木材が輸入物の凝ったやつだったみたいで、それがなかなか届かないらしい。津島さんとこだってあの家だけやってるわけじゃないし。工事の再開が年明けになっちゃいそうなんだよ」
「おじさん、年末年始にあの家を使いたかったの?」
「いやいや、あの人年末年始はいつも海外なんだよ。ここんとこはカンボジアに行くことが多いみたい」
一樹のグラスが空になり、二杯目は何にすべきかバーテンダーに助言を求めた。二、三のやり取りをして、バーテンダーは棚からいくつかのボトルを取り出した。一樹はいった。
「僕らは東京の人間で、叔父の別荘の番人なんです。こちらはリフォームをお願いしている津島さんに教えてもらったんですよ」
「私、銀座で店をやっていたこともあるんですが、多分、その叔父様はそちらによくいらしていた方ですよ。津島さんはその方の紹介でうちにいらっしゃるようになったんです」
「そうなんですか。へえ。世の中、循環してるんだなあ」
はしゃぐ一樹の前に、小さなグラスが差し出された。
「50年代、70年代、90年代、2000年代のジンをステアしたマティーニです。ちょっと遊んじゃいました」
「僕が産まれる前のジンも入っているんですね」
大輔は振り返って、窓の外を見た。そろそろ空も海も川も紺色に沈んできた。グラスには、まだほんの少しウイスキーが残っている。
「いいかげんマンション解約しなくちゃならないんだ。半分とはいえ、無職の自分にはあそこの家賃もバカにならないし」
「じゃあさ、とりあえず、あの家に住まない? 次の部屋が見つかるまで。鎌倉からなら、都内まで通えるもんな」
「うん。今の話聞いて、ちらっとそう頼めないかなって思ったんだ。それに、東京でほとんど用事ないし、家具はほとんどあっちが持ってっちゃったから、大した荷物ないし」
「おじさんにはいっとく。もう何年もほとんど使ってない家だから、喜ぶはずだよ。しかしさあ……」
「しかし、何?」
「その先の仕事、どうすんの?」
大輔にはなんの答えもない。黙っていると、一樹はゆっくりとグラスを口に持っていき、マティーニを一口飲んだ。
「おお、時間の味がする。なんちゃって」
バーテンダーがにこやかにいった。
「お酒にとって、時間は財産ですからね」
一樹とバーテンダーは叔父のことで会話が弾んでいる。大輔はトイレにたった。トイレには大きなバスタブがあって、驚いた。バスタブの中にはマムの大きなボトル。不思議な空間だった。自分はなんとかなる。まったく根拠はないのだけれど、そう思えた。
トイレから戻る時、窓の外がすっかり暗くなっていることに気がついた。夕方から夜になるのはあっという間だ。まるで、何かが落ちていくような早さ。川はゆっくりと海に流れていくのだった。
PROFILE
甘糟りり子
神奈川県生まれ。作家。大学卒業後、アパレルメーカー勤務を経て執筆活動を開始。小説のほか、ファッション、映画などのエッセイを綴る。著書は『産まなくても、産めなくても』(講談社文庫)『鎌倉の家』(河出書房新社)など。
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February 14, 2020 at 07:30PM
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