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五感に訴える写真と小説。書棚の一等地に置きたい、特別な本 - 朝日新聞社

五感に訴える写真と小説。書棚の一等地に置きたい、特別な本

撮影/馬場磨貴

『震える虹彩』

自宅の本棚の一等地には特別な本を置いておきたい。私にとって特別な本とは、五感に訴えかけてくる本のこと。見た目がよく、手触りがよく、紙とインクの匂いがよく、ページをパラパラとめくる音が心地良い。人間が個体によって、見た目も、身長も、体重も、声も、体臭も異なるように、本にもそうあってほしい。それこそ、電子書籍では決して代替することができない、紙の本ならではの「モノとしての価値」だと思うから。

小説家の水原涼さん、写真家の安田和弘さん、デザイナーの岡田和奈佳さんが合同で制作した『震える虹彩(こうさい)』は、まさに五感に訴えかけてくる特別な本だ。布装で函(はこ)入りの豪華な本で、右開きで読むと水原さんの小説が、左開きで読むと安田さんの写真が見られ、真ん中のページに奥付があるという不思議なつくりになっている。小説の部分と写真の部分で異なる紙が使われており、小口のところが光と影のようにも見える。

本そのものが五感に訴えかけるつくりになっているのと同様に、水原さんの小説もまさに五感を刺激するたくらみに満ちたつくりになっている。

『震える虹彩』の小説部分は、「体液」「秋の日」「レーザーライト」「毛皮」「震える虹彩」の五つの小説からなる連作短編集なのだが、それぞれの短編の中で、触覚、嗅覚(きゅうかく)、聴覚、味覚、視覚が意識的に描かれているように思える。

小説家である大学生の主人公が、一人の女性と出会い、結婚し、離婚するまでの4年間が断片的に描かれていて、とりわけ冒頭の「体液」と最後の「震える虹彩」が、いずれも明かりの落ちた部屋を舞台に描かれている点がおもしろい。

五感に訴える写真と小説。書棚の一等地に置きたい、特別な本

『震える虹彩』水原涼、安田和弘 著 5,000円(税込み) 
取り扱い店は、二子玉川 蔦屋家電、SUNNY BOY BOOKS、双子のライオン堂(いずれも東京)、本屋lighthouse(千葉)、rainroots(愛知)、定有堂書店(鳥取) 撮影/馬場磨貴

光が当たっていない場所だからこそ、触覚や嗅覚や聴覚が研ぎ澄まされ、描写の解像度が増す。そのこと自体ももちろんおもしろいが、それ以上に「体液」で描かれている私と彼女の距離と、「震える虹彩」で描かれている私と彼女の距離に、大きな隔たりがある点が興味深かった。私にとっての「私」と、他者にとっての「私」がまったく別の生き物であることが、他者の目からあぶり出される。そのことの哀(かな)しさや愛(いと)しさがほんのりと行間から漂ってくるようだった。

名指すものがない風景

本書の一番の魅力は、制作者3人のそれぞれが、それぞれに自由な表現をすることで、小さくまとまったり、予定調和になったり、無難な着地をしていない点にあると思う。あらかじめ決めておいた通りに制作したならば、これほど静かな熱を帯びた、すごみのある本には仕上がらなかったはずだ。

とはいっても、まとまりがない本だというわけではない。水原さんの小説と安田さんの写真は、一見するとリンクしていないように思えるが、根っこの部分では通じ合っている。

たとえば、水原さんの小説にも、安田さんの写真にも「名指すもの」がない。安田さんが撮る風景は、水原さんが本書の購入特典冊子「震える虹彩についての、いくつかのこと」で指摘するように、撮影者から切り離され、意味を持たないように見える。一方で、水原さんの小説には、登場人物の名前が一切登場しない。登場するのは、「私」「彼女」「友人」「マスター」「エッセイイスト」といった記号のような存在である。

小説は、名指したり、名付けたりした時点で、小説そのものから遠ざかっていくのかもしれない。言葉になる前の感情、感情になる前の意識、名指すことができない漠とした空気を、意識下でも無意識下でもない状態でシャッターを押すように切り取る。『震える虹彩』はそんな風につくられた本(小説集、写真集)なのではないだろうか。ずっと手放したくない一生ものの本と出会えた。

(文・北田博充)

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